teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助 youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


馬琴忌更新

 投稿者:伊井暇幻  投稿日:2011年11月 6日(日)03時35分25秒 p7008-ipbfp303matuyama.ehime.ocn.ne.jp
返信・引用
  今回の馬琴忌更新{追加}は、以下の2本です。
222.メタモルフォーゼス
223.復讐の文化性

http://lovekeno.iza-yoi.net/inu_ind.htm

「メタモルフォーゼス」すなわち「変態」……いや、「変容」は、古代羅馬の哲学者・文学者であったルキウス・アプレイウスの黄表紙小説を大雑把に紹介する。

「復讐の文化性」は、「メタモルフォーゼス」から引き続きアプレイウスの小説を引きつつ、同作中で驢馬に変容した人間が粗暴な飼い主に復讐する場面を引き、八犬伝でも、霊獣や人間は復讐するが、動物は「復讐」しないと規定する。
大塚浜路の飼い猫/紀二郎猫は、信乃の愛犬/与四郎に喰い殺された。しかし与四郎犬は後に登場する媼雪世四郎に通じており、且つ紀二郎猫は直塚紀二六に通じている。世四郎と紀二六は、親兵衛の第一次上洛から親密度を増し、結城大法会あたりまで一心同体であるかの如く、行動を共にする。人間の感覚ならば、紀二郎猫は与四郎犬に復讐心を抱いている筈だ。しかし、犬塚番作が夙に指摘した如く、大地の上で犬が猫を襲うことは、生態系ではないけれども、【天の理】である。其処には何等の感情も介在することを得ず、故に復讐は、あり得ない。よって、世四郎と紀二六が仲睦まじく行動を共にすることには、何の妨げもない。八犬伝の、少なくとも序盤の主宰神は、役行者であった。本シリーズでは既に、役行者を祖とする修験道で「伏」の字は、人と犬とが合体したモノであり、人は【明/理性】、犬は【無明/無理性】を表している、と紹介している。理性とは、人をして人たらしめている要素であり、犬には其れが無い。復讐は、人{と人に類する霊獣}に特有の、文化的行為である。犬/無明/法性は、復讐心をもたない。アマチュア復讐者である犬山道節以外の犬士たちは、個人的な復讐を完遂し、そして「小乗屋」に宿泊、結城大法会に出席した後、里見家の部将として南関東大戦に参加する。此のとき、犬士群の仁を象徴する親兵衞は、伏姫から授かった蘇生丹を、敵兵にまで分け与える。個人の解脱を目指す「小乗」の態度から、万人を救済せんとする大乗の姿勢へ転換している。この道行きは、里見家だけを守護する伏姫神が、万人の救済を願う観音菩薩へ成長する過程でもある。以前に語った通りだ。血で血を洗う復讐の連鎖は、人である以上、必然であるかもしれない。其の連鎖を断ち切るためには、人というステージから別の次元へと移行せねばならない{此処では「移行」を、「昇る」とも「降りる」とも断定できない}。人であって人ではない犬、明であって且つ無明、伏姫にしか、玉梓の熾烈な復讐心を包み込み無化/昇華することは、出来なかったのだろう。

いや、しかし、5日に出勤するまで翌日が馬琴忌だって忘れてまひた。危うく更新できないところだった。ふぅ。
 
 

七夕更新

 投稿者:伊井暇幻  投稿日:2011年 7月 7日(木)01時51分23秒 p6236-ipbfp405matuyama.ehime.ocn.ne.jp
返信・引用
  海南人文研究室
http://lovekeno.iza-yoi.net/

の「犬の曠野」
http://lovekeno.iza-yoi.net/inu_ind.htm

を更新しました。恒例の七夕更新です。今回の追加分は、
219.馬琴のラブレター
220.馬琴の経世済民論
221.報われぬ恋
の3本です。

219.馬琴のラブレター
まず近世経済を概観し、馬琴と只野真葛との文通に触れる。
220.馬琴の経世済民論
荻生徂徠の政談を引き合いに、馬琴の経世済民論を評価する。
221.報われぬ恋
只野真葛との文通の中で、馬琴が披露した広い意味での経世済民論/政治論が、如何なものであったかを確認し、只野真葛の経世済民論が示す限界を明示。空虚なポジティブアクションを批判する。
只野真葛は確かに才気煥発たる女性ではあったが、身分制{町人への憎悪}の呪縛もあり、真の平等論には到達し得ていない。対して馬琴は、武家出身でありながら市井に暮らす町人として、両階級の相対化にまで至っている。出版統制下にあって、真葛との私的な文通に於いて、漸く一定の纏まりを以て披瀝した経世済民論/政治論の根幹は、それなりの教養・知性を有する者に政治的議論を許すモノであった。ってぇか真正の儒学は如斯きもので、そもそも浮浪老人の孔子が政治を語っている所からしてアレなんだが、実のところ武家と町人を相対化していた馬琴が、経世済民を語る女性/真葛に対して見せた真剣さは、結局する所、女性と男性との相対化に行き着かねばならない。傾城水滸伝を書き始めた馬琴は、ふと真葛を懐かしみ、兎園会で懐かしんでいる。が、其の時すでに真葛は死んでいた。後に聞いて、甚だ惜しんでいる。真葛の知性を愛し、著述の至らなさを厳しく批判した馬琴の「恋」は、報われぬものであった。

ちなみにミラーサイト
http://space.geocities.jp/tanetomo_i/

は容量オーバーにより更新できませんでした。
 

ぬぬう

 投稿者:伊井暇幻  投稿日:2010年12月 2日(木)23時37分54秒 p7137-ipbfp401matuyama.ehime.ocn.ne.jp
返信・引用
  現代語訳もの翻案ものは読んでないので判りませんが、糠助と見兵衛……地味な二人に一体ナニが? また、犬士のなかでも地味系である荘助の、しかも額蔵時代……。地味な登場人物の視点から物語ると、また違った八犬伝になることでしょうね。  

うぬぬ

 投稿者:ゆこ  投稿日:2010年12月 2日(木)19時54分29秒 p1200-ipad05oomichi.oita.ocn.ne.jp
返信・引用
  読む時間が・・・!

先日、しかたしんさん(?)の子供向けの八犬伝を立ち読みしました。
なんていうか、糠助と見兵衛、そんな重要になって・・・
そして額蔵への愛を感じました。荘助ではなく、額蔵!

つか、あっという間ですね、一年って・・・
 

訂正

 投稿者:伊井暇幻  投稿日:2010年11月 6日(土)03時25分45秒 p7137-ipbfp401matuyama.ehime.ocn.ne.jp
返信・引用
  本文中の「七夕更新」は「馬琴忌更新」の間違いっす。訂正します。  

馬琴忌更新

 投稿者:伊井暇幻  投稿日:2010年11月 6日(土)03時02分9秒 p7137-ipbfp401matuyama.ehime.ocn.ne.jp
返信・引用
  今回の七夕更新は、「隣尾判官の発言を廻る若干の問題点」「第四輯序を廻る若干の問題点」「道節の忠をめぐる若干の問題点」「犬士の女性化を廻る若干の問題点」「虚より出て実ニ帰す」「大団円末尾を廻る若干の問題点」「辞世を廻る若干の問題点」の七本を増補したものです。連動して栗鼠の頬袋も一本増補しました。南朝方の宗良親王に関するものです。
「-を廻る若干の問題点」とのタイトルが多い所以は単に、「隣尾判官の-」のタイトルがつかなくて適当につけたところ、一つなら無味乾燥だがズラズラ並べることでオカシ味が出るかな、といったところ{←タイトルでウケを狙って如何する}。次回か其の次ぐらい、傾城水滸伝関係で何か出来たらな、と思っていますが、さて……。

■隣尾判官の発言を廻る若干の問題点■
八犬伝第百三十四回、親兵衛との知遇を得た三河国渥美半島の領主/隣尾判官は自己紹介の中で幾らか興味深い情報を提供する。
まず、「将軍の宮宗尊親王」はケアレスミスだ。宗尊は鎌倉幕府の親王将軍であって、南北朝期の人物ではない。正しくは「宗良親王」だろう。但し、太平記などで印象深い南朝方親王には新田・里見に奉戴された「尊良」もいる。「宗良」と「尊良」を足して後醍醐帝皇子の通字「良」を除けば「宗尊」になったりする。「宗尊」は馬琴の単純なケアレスミスか、それとも印象深い二人の親王将軍を併記したものか。
何連にせよ、遠江に展開した南朝方親王{/宗良}は「井の城」に拠った。井伊氏の井伊山城だ。馬琴は此処でも然り気なく、自分の祖先筋に当たり、且つ手束の実家である所の井氏が南朝の忠臣であったことを強調している。
ところで馬琴当時、三河国渥美半島は、田原藩の領地であった。田原藩家老格の渡辺崋山は、馬琴長男の親友であったが幕府官僚の執拗な嫉妬心により自殺に追い込まれた。蛮社の獄である。まぁ其れは措き、有能な崋山は、西洋列強の日本侵略に備え、大筒まで使って海防を視野に入れた水陸軍事演習/猪狩を敢行した。八犬伝で里見家が水陸軍事演習/狩を行う{天保十年二月贅言執筆}ほぼ一年前であった。此の軍事演習は注目され、水戸藩主徳川斉昭も、一万二千人規模の軍装狩猟を行った。

■第四輯序を廻る若干の問題点■
八犬伝第四輯序で馬琴は「孔子曰、君難不君、臣不可以不臣」と語った。古文孝経孔安国序からの引用だ。前後の文脈から馬琴が、此の言葉を正当かつ正統な意味【君主が間違いやがったら臣下は全力を挙げて矯正せよ】として理解している。筆者も重耳の逸話を挙げ、真の忠とは【君主が泣こうが喚こうが拉致ってでも天道に従わせる】ことだと指摘してきた{「栗鼠の頬袋」など}。しかし評答書翰に拠れば、馬琴知音の一人/畳翠翁すなわち暇と教養だけは腐るほどあるべき寄合組大身旗本にして、此の言葉を【君主が君主らしくないからといって臣下は臣下らしく絶対服従の規定を逸脱することが許されない】との意味だと、スットンキョーな誤解をしている。孝経を如何読んだら、そんなトンデモ理解が出来るのか全く理解不能である。云う迄もなく「君難不君、臣不可以不臣」は、「君君、臣臣」{論語}を発展させたフレーズだ。「君、君たり。臣、臣たり」と云った所で、どうせ殆どの君主はバカガキなんだから、殆どの場合に間違う。間違った時に、臣下が諫争すべきことを規定している。日本の常識である。
しかし現実は非常識に支配される。君主が間違っても、臣下は臣下としての務め/諫争を放棄し、イエスマンに堕す。其の方が君主に評価され、しかも安泰だ。「君難不君、臣不可以不臣」を実践した比干は、殺され心臓を抉り出された。
八犬伝に登場する悪の首魁/扇谷上杉定正と足利成氏は共に、諫争する忠臣を遠ざける性向をもつ。いやまぁ甚だ御尤もであって大多数の君主は同様であっただろうが、其れが故に、殆どの組織は滅亡への坂道を転がり落ちていく。

■道節の忠をめぐる若干の問題点■
南関東大戦に当たって仁戦を標榜した里見義成を、道節は殆ど面罵するかの如く諫争する。忠犬士の面目躍如だ。とはいえ、義成が間違っているわけではない。かといって、道節が間違っているわけではない。義成は天道/理念を奉ずる民主/リーダーであり、道節は戦場の最前線で其の理念と現実を結び付けるべく行為する。両者の行動原理は抑もズレているから、噛み合う筈もない。
例えば、八犬伝で【愚かな理念】とでも謂うべき者を、「宋襄の仁」と表記する。宋の襄公が、劣勢であるにも拘わらず敵軍の配置が完了するまで攻撃しなかった故事を指す。此の挿話を載せる二つの春秋は、互いに逆の評価を襄公に下している。則ち、春秋左氏伝は襄公をバカだと断じているし、春秋公羊伝は襄公を周文公に擬して称賛している。左氏伝は、なるほど現実的で説得力をもつが、自分と時空を遙かに隔てた過去の事実を我が身に引き付けて評価する必要は、実の所まったく無い。倫理の例題とすれば、襄公を称賛しても良いわけだ。国家は何等かの正当性を標榜し、国民を統合する。其の理念を放棄すれば則ち国家は正当性を喪い、消滅せざるを得ない。存続する意味すら無い。よって、襄公が宋の既存体制の存続を国家統合の理念として掲げていなかっただけのことであって、別に責める必要はない。左氏伝と公羊伝では、拠って立つ場所が違うだけの話だ。
ところで唐突だが、論語に於いて孔子と子路の関係は甚だアヤシイ。子路は必ずしも賢人として描かれてはいないが、極めて純真に孔子を慕っていた。まるで孔子の愛犬の如きである。きっと孔子も事ある毎に「シロや、シロ」と呼び付けては他愛ない話でもしていたんだろう。礼記には、飼い犬が死んだとき、弊蓋を以て床とし高弟に葬らせた、とある。馬琴と同時代、大坂の陽明学者/大塩中斎は洗心洞箚記で、「孔子が飼い犬を丁寧に葬った箇所を読み、なんちゅぅ大袈裟なオッチャンやねん、と疑問に思っていたが、自分も飼い犬が死んで、漸く気持ちが解った」と書いている。如何やら平八郎も孔子も、犬好きだったらしい。あだしごとはさておきつ。
重臣列座のなか、里見義成を、現実主義を以て面罵する道節であるが、考えてみると、道節に「現実」を求めるには無理がある。彼は、幼い頃に毒殺され、文字通り、墓場から甦った。妖しい火遁の術を使っていた。存在自体が、現実主義的ではない。しかも素浪人や武田家の眼代に化けたり、素性を隠した侭で美貌の毛野をストーキングしたり……とにかく深編み笠の似合う【虚の犬士】だ。
虚の犬士を以て現実を代表させること自体、現実の世界に生きる読者と【虚の世界】を結ぶ稗史/八犬伝物語の性格を、象徴的に表している。

■犬士の女性化を廻る若干の問題点■
「いと艶なるは、師直が塩谷の妻に掛想して、那出浴を偸見る条こそ堪られね」{第百三十七回}
風呂上がり、桃色に染まった頬を、うっすら濡らしている美少女/美熟女は、とてつもなく素晴らしい景色である。反論は認めない。
明治に入って混浴禁止令が出されるまで、ってぇか出されても暫くは、銭湯は混浴であった。しかし八犬伝に於いて、風呂上がりの場面を覗く行為は、限りなくセクシャルなものとして規定されている。
女装した信乃が白昼、荘助の前で一糸纏わぬ姿となった。ただ単に、腕の痣を見せるためであった。如何に考えても、腕を見せるためだけに全裸となるは、過剰である。
八犬伝に拠れば、晋の重耳は衛君に全裸に剥かれ辱められた。後に重耳は、衛を滅ぼし復讐した。全裸を曝すとは、少なくとも八犬伝に於いては、其れ程に【大変な事】なのだ。最悪の陵辱である。軽い気持ちで出来るものではない。
陵辱の許容すなわち和姦化とは、婚姻に外ならない。視線は権力である。視ることは知る事、知ることは領{し}る事、即ち【所有】への指向だ。伏姫に擬せられた信乃が、其の美しい肉体を荘助に曝す事実は、果たされなかった伏姫と金碗大輔との婚姻を象徴している。後に信乃は浜路姫と婚姻し、大輔が封ぜられる予定であった東条の城主となる。此の時、信乃は大輔に擬せられている。同時に信乃は、四天王の玉眼としては、親兵衛と繋がる。親兵衛は房八と精神面で同一であるから、房八すなわち八房とペアリングしていることになる。伏姫としての側面を覗かせる。
では、入浴を故意に覗かせた大角は如何か。相手の現八といえば、八房ならぬ山猫を半弓で射る。赤岩から大角を解放する機能を有している。玉梓の憑依する八房に拘束された伏姫と、山猫の化けた父に拘束され虐待される大角。【対】である。現八によって大角が赤岩から解放される物語は、【大いなるIf】則ち、金碗大輔による成功した伏姫救出劇を暗に想定せしめやしないか。自ら申し出て、現八に全裸を曝す大角の淫靡なる行為は、大輔を受け容れ婚姻に至る伏姫を妄想させはしないか。
大角と現八の遭遇が、伏姫と現八の満たされざる婚姻を修復するものであるならば、雛衣の存在は、微妙なものとなる。雛衣の割腹は伏姫を連想させる。しかし同時に、大角を愛しつつも偽一角と姦通したと決め付けられ死に追い詰められた雛衣の姿は、既に菩提心を発し伏姫に殉じようとしていた八房が、邪悪な者として大輔に銃撃され滅多打ちにされて殺された悲劇をも彷彿とさせる。大輔の原罪は、伏姫への過失致傷のみではない。後に八房は房八として、悪人を演じた挙げ句、小文吾に斬られた。
結局する所、伏姫の悲劇は、換骨奪胎、手を変え品を変え時には逆転しながらも、表記されていくのだ。

■虚より出て実ニ帰す■
勧善小説を志す馬琴にとって神仏の擁護やら政木狐の石化なぞという不可思議な霊的現象は、【有りて無き】ものだ。有ると云えば有るし、無いと云えば無い。倫理とは、画虎である{「破戒の倫理」参照}。心の裡に棲息する猛虎のごときものであって、破戒すれば心を傷つけ食い破らんとする者だが、無視して其の倫理/虎を放棄しても、実のところ痛くも痒くもない。人は物喰う物理的存在ではあるが、パンのみにて生くるにあらず、心の滋養も必要だ。淡々と喰うてセックスして糞して寝る……だけで良いのなら、抑も文物なぞ発生しなかっただろう。心/虚を抱く物理的存在/実が、人というものだ。「犬村か論ハ犬村の心也狐龍の遺言ハ狐龍の古ゝろ也虚より出て実ニ帰す」である。

■大団円末尾を廻る若干の問題点■
八犬伝は民俗仏教を下部構造としている。上部構造は、儒学であるが、末尾に急展開して、道家思想が混淆してくる。ほぼ一貫して、やや暑苦しい儒学論理が優勢であるのだが、末尾に至ってスルリと道家思想が混入する。技術面から見れば、馬琴の稗史作法は現実から離陸し虚構に遊び再び現実に戻ってくるものだから、それまで【現実】として語られた物語世界を無価値化しなければならない。現実を無価値化する道家思想/老荘思想は、便利だ。読者が深く強く感情移入してきた物語世界をキャンセルするため、敢えて末尾で道家思想を引いたと、見えなくもない。

■辞世を廻る若干の問題点■
八犬伝の下部構造は民俗仏教であった。上部構造は概ね儒学であるけれども、近世後期の日本朱子学より原初の形に近い、例えば論語や孝経のテキストに忠実な正統派であった。其れが故に、去勢儒学の蔓延する世に在って、現実に対し批判的たり得た。批判する眼前の現実を無価値化する老荘思想も、馬琴の思想の一部を形成していた。民俗仏教は、稗史ストーリーを都合良く転がすためのツールに過ぎないだろうが、眼前の現実を理想に近付ける思想として、馬琴は正統儒学と老荘を組み合わせている。もしくは老荘思想によって眼前の現実を一旦無価値化することで、眼前の現実に囚われることなく、躊躇なく理念を以て理想的な世界/八犬伝物語を構築できたのであろう。
 

七夕更新

 投稿者:伊井暇幻  投稿日:2010年 7月 7日(水)02時12分10秒 p5082-ipbfp305matuyama.ehime.ocn.ne.jp
返信・引用
  ホームページ領域を借りている忍者が、ウイルス対応のため何やら仕様を変えたため、更新が出来ない状況となっていることが6日午後11時50分ごろ発覚。
急遽、Yahooに鞍替えした。新アドレスは、

海南人文研究室
http://space.geocities.jp/tanetomo_i/

犬の曠野
http://space.geocities.jp/tanetomo_i/inu_ind.htm

です。ご迷惑をおかけします。取り敢えずは今回更新用の避難所ですが、忍者に復旧の目処が立っていませんので、このまま移行してしまうかもしれません。
ミラーサイトにするかな。
さて、今回の更新では、以下の五本を増補しました。

207.龍種の牛馬(2010年07月07日掲載)
 評答集に拠れば、須本太牛と青海波が対応の関係にある。青海波には走帆という分身がいた。須本太牛の分身を赤鬼四郎牛と見て、船虫刑戮の意味を少しく考える。青海波と赤鬼四郎牛が盗まれた事件には伏姫の影がチラつく。これらの窃盗事件は、読者に不自然さを感じさせないよう、不自然な移動をするために起こった。また、船虫刑戮の場に毛野が居合わせなかった物語上の必然性を確認する。

208.天惟時求民主(2010年07月07日掲載)
 書経{尚書}多方を読み、民衆を顧みない支配者には天誅が下るという儒教政治哲学を確認する。多方に載す有名なフレーズ「惟聖罔念作狂。惟狂克念作聖」を、馬琴は拡大解釈して日常的場面でも使っていた。知音の評が的中したとき「バカでも良く考えりゃぁ当たるよな」ぐらいの意味で使っていた。無礼なオヤジである。

209.将門はバカ(2010年07月07日掲載)
 馬琴は、人が怨霊となる原因を、理に暗いため自分が何故に懲らされたか理解できないからだ、と考えていた。バカだから怨霊なんかになるのだ。しかし、「惟聖罔念作狂。惟狂克念作聖」、怨霊は祀られ強力な守護神へと変化する。元々強力なエネルギーをもつバカこそ、強力な守護神へとなる。善悪は絶対ではない。流動する。順逆の理を忘れ扇谷上杉定正を仇と狙うバカが犬士にもいた。理に適わぬ怨みであるが、何歟と邪魔が入り、幸いにも完遂できなかった。恐らく伏姫の【擁護】であろう。扇谷上杉家の重臣でありながら巨田道灌父子は実ところ善玉で、伏姫側なのだ。
 流動混交し得る善悪を表現するに、馬琴は二人の女性{?}を設定した。評答集の記述から、筆者が縷々述べてきた論裡を補強する。母なるものを善悪に分離した妙椿と妙真の対照性にカンする話題だ。

210.姐さん女房(2010年07月07日掲載)
 里見義成には二歳年上の妻がいた。七十二回に登場する側女・盧橘である。しかし百九回までに、嫡室だった白前が消滅し、代わって吾嬬前が嫡室におさまっている。馬琴が白前の存在を忘れていたのだ。
 馬琴は、吾嬬前が「{弟}橘姫義烈の余波」と明かす。盧橘は三の姫鄙木と五の姫浜路二人の母親として登場した。百九回には浜路の母として吾嬬前が登場した。名前が変わっているが、本質として同一人物である。本質とは「橘姫義烈の余波」だ。鄙木・浜路姫の前身は、雛衣・浜路であった。二人とも、夫もしくは許嫁を愛し抜き、其れが故、死へと追い詰められていった。二人の不幸は、弟橘姫の悲劇を源としている。

211.虚実の交錯(2010年07月07日掲載)
 吾嬬前が橘姫義烈の余波なら、義成も信乃も、日本武尊の要素を少しは持っている筈だ。日本武尊が握りしめる天叢雲剣は皇位を象徴する神器でもある。馬琴は、二振の名刀、小月形と村雨が「反対」の存在かと問われ、「小月形は実、村雨は虚」と答えた。此の場合の「反対」は、共通する範疇に於いて対となる性格を互いに有する物や事象を指す。大月形が里見家支配権、小月形が支配権に準ずるものを象徴、村雨が関東足利家継承権を表すものと見る。継承権とは、支配者となる正当性である。民主/帝王としての資格を十分にもつ里見家と、暗愚で正当性なきまま支配者の座にある足利成氏の対比が、二振の太刀が「反対」である意味だろう。往々にして支配者は、惨めな虚構性の上に立つ。
 また、筆者の持論、信乃の母方/井氏が盧橘と親族であることから、馬琴の祖先筋/真中氏が、里見家と信乃を結ぶ役割を果たしていることや、井氏は猪隼人の一族であるからこそ国府台合戦で霊猪が信乃を助けて活躍することを確認する。
 

いやいや

 投稿者:伊井暇幻  投稿日:2009年11月 6日(金)20時56分28秒 210.141.223.7
返信・引用
  故人を悼む心さえあるのです。何もしなくても。
……今年も父の墓参りに行かなかったなぁ。
 

にょわ~

 投稿者:ゆこ  投稿日:2009年11月 6日(金)19時09分15秒 p4193-ipad07oomichi.oita.ocn.ne.jp
返信・引用
  今年も何もできませんでした。
馬琴先生ごめんなさい。

( ´_ゝ`)ゞわりぃわりぃ

京伝との比較楽しそうですね!
ちょっと落ち着いたら読もう。っていつだ。
 

毎度お馴染み馬琴忌更新

 投稿者:伊井暇幻  投稿日:2009年11月 6日(金)02時07分59秒 p7152-ipbfp502matuyama.ehime.ocn.ne.jp
返信・引用
  伊井暇幻読本・南総里見八犬伝、今回の馬琴忌更新は、四知音の一人殿村篠斎との評答をダシに三回分。多分、今後数回は同様に馬琴評答集で遊ぶことになるでしょう。評答とは、馬琴とディープなファンとの間で交わされた対話です。

■放蕩の相撲取り■
現在でこそ大相撲では前髪のある大銀杏を結うが、近世では一般に前髪はないようだ。ってぇか普通、成人男性に前髪はなかった。前髪は、【男】とは別の性である【少年】の性徴であるが、肉体としては成人となっても営業上の必要から前髪を残していた者たちもいた。例えば、男に対しても枕営業する飛子とか。近世では相撲取りも立派なアイドルであったのだから、男女の欲望を掻き立てるべく、前髪を残していても構わない。前髪を残すことは、現在で云うならば、成人に至った女性アイドルがフリフリのスカートを穿くようなものであって、一部には嫌悪するムキもあろうが、一般には当然として受け止められることだろう。成人男性の前髪立ては、其の程度の特殊性しかない……かもしれない。
惟えば八犬伝でも、相撲取りの山林房八・犬田小文吾は、肉体も人格も成熟していたわけだが、何故だか前髪を立てていた。房八は硬派ヤンチャ系、小文吾はヤンチャ可愛い系のマッチョであって、男女の欲望を掻き立てる資格を有するけれども、二人の前髪は果たして、アイドル性の表徴であろうか。

近世東上総の伝承に基づく小説「白藤源太談」は甚だ興味深い。前髪立ての美男相撲取りが主人公である。こう書くと、マッチョ美男子の男遍歴かと思うムキもあろうが、そうではない。邪神の絡む復讐譚である。善玉狐も登場して、ご都合主義的に話が進む。現在の視点からすれば、完成した小説というよりもプロットの羅列と云うべきかもしれない。まぁ前近代小説は、スムースさを無視して要らんこと書かないから、概ね、こんなもんだ。【文】としての完成度は無視して、単に酔っ払いが面白い話を演ずるが如きである。ウケるであろう所は詳しく、そうでない所は端折る。
筆者にとって、白藤源太談は、甚だ興味深い。何より同話は、「前髪」が立ち上げる二つの印象を対比して語る。即ち、前髪は、或るときには【体制の埒外】であることを示す指標であり、また或るときには、【男にさえ愛される少年の性徴】であった。ちなみに、房八・小文吾・源太とも、前者の前髪立てである。

■蟇田素藤誕生の闇■
前回、白藤源太談の話をしたが、実を言うと作者は山東京伝である。馬琴の師匠であり、敵対者だ。馬琴の云う所によれば、八犬伝後半に於ける大物悪玉「蟇田素藤」の名前の由来は、白藤源太なのだ。馬琴は山東京伝の白藤源太を全く無視して話を進めているが、それだけに、或る疑惑が浮上する。八犬伝に於ける蟇田素藤の造形を、山東京伝の白藤源太と真逆に設定することで敢えて、山東京伝を貶め自らの優位を誇示しようとしたのではないか、と。八犬伝と山東京伝の白藤源太談は、余りにも鮮やかに対立し過ぎている。勿論、偶然の産物と認定しても良いのだが、例えば考古学は石表面の剥落具合で人為か否か、即ち石器か否かを勝手に判定する。余りに鮮やかな対比がある場合、人為と認定しても可だろう。それだけ鮮やかな対称が、八犬伝と白藤源太の間にはある。

■狗児仏性、無からんや■
八犬伝第九十六回末尾、「狗児仏性趙州曾識、相接犬牙先独突然」なる十六字がある。狗児とか趙州とか、明らかに無門関もしくは従容庵録絡みのフレーズだ。禅録である。但し馬琴は、仏教の盲信者ではない。仏教を信ずれば何でも願いが叶うと考える者ではない。しかし禅録から言葉をとって自作を語る以上、仏教の根本を信じぬまでも、仏教の論理を借用していることは明らかだ。此の場合は、「有りて無き」の論理である。
ゴータマさんは最後の道行きを語る涅槃経で「一切衆生悉有仏性」と確定した。だからこそ犬にさえ、「如是畜生発菩提心」との機縁が生まれる。生きとし生ける者すべてが「仏性」を持つからこそ、存在として最悪な玉梓も妙椿も、菩提心を発すのだ。実のところ、「仏性」とは生命そのものではないか。生命が生命を悦ぶことは、既に一休を論じたシリーズで述べた。他者の陵辱や虐殺を悦ぶ生命は、生命として畸形に過ぎない。そんな【個性】は認めない。本来、「仏性」とは生命の存在を悦ぶ「生命」である。故に、「一切衆生悉有仏性」は殆ど同義語反復であるほどに、確かなテーゼである。「畸形」も「発菩提心」すれば、本来の、生命の存在を悦ぶ生命に立ち返る。其の【希望】こそが、ゴータマさんの理念ではなかったか。
馬琴は、仏教の盲信者ではない。しかし論理は借用している。上記の「仏性」は、其の侭では八犬伝に適用できない。しかし例えば、「英雄性」とでも置き換えれば、八犬伝の背景となる。忽ち犬士の生成が可能であるとの「希望」が生まれる。現実に、犬士のような英雄は存在しなかっただろうし、これからも出現しないだろう。しかし、人々の思念の裡には存在し得た。だからこそ八犬伝は博く読まれた。人は、犬士を裡にもっている。発菩提心、踏みにじられ隠蔽されてきた若しくは忘れ去り抑圧してきた善なる心、生命の存在を悦ぶ生命を、確認することこそ、勧善懲悪文学もしくはジュブネイルの存在意義であろうか。
即ち、南総里見八犬伝である。
 

レンタル掲示板
/26